2013年01月05日

アメリカから見た日本D〜旧満州と石原莞爾〜

 私の父は、終戦の年に旧満洲(大連)の製鉄所に就職し、終戦を迎えるやソ連軍に追われ日本に引き揚げてきた。一つ年上の叔父は軍属として旧満洲でソ連軍に捕まり数年のシベリア抑留の後 引き上げ間もなく力尽き、亡くなってしまった。しかし、私は、「満州」という国がなぜでき、なぜ無くなったのかをこの歳まで深く知ろうとしなかった。この機会に、少し旧満洲のことを調べてみたい。 今回は、「旧満洲と石原莞爾」の話を中心にこの戦争を考えてみたい。 日本から旧満州をみると米国と全く反対の方角であり、アメリカと旧満洲は現在では全く関係がないように見える。しかし、アジアの帝国主義競争の歴史の中で、実はアメリカも「遅れてきた帝国主義者」であった。すなわち、米国が西部劇のごとく西海岸までアメリカ大陸を制圧し、ハワイ、フィリピンと太平洋を西に進み、ユーラシア大陸にたどり着いた時には、すでにアジアは、ヨーロッパ列強の植民地ばかりであった。そこで目をつけたのが旧満州である。日本は、日露戦争の戦利品として、満州鉄道などの利権を手に入れていた。日露戦争では、日本は アメリカやイギリスから大量の借金ををして戦争を遂行した。アメリカは 日本の国債を大量に買ってくれていた国なのである。(現代とは全く逆ですが)だから 勝った日本に対して、「満洲の利権を少し分けてくれ」と頼んできた。有名なアメリカ鉄道王ハリマンが日本に満鉄の利権を共同で開発しようと提案する。しかし、当時の日本の小村寿太郎は、ケンモホロロにこの申し出を断り、アメリカの怒りを買ってしまう。この辺りから、日米の関係はぎくしゃくしてしまう。 
 話を国内にもどして、石原莞爾に関して考察してみたい。1892年山形県鶴岡生まれ。1918年陸軍大学校を次席で卒業する天才肌の人物である。
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戦術知識より 哲学・歴史を好み、戦略思考に長けた人物だったようである。かなりの切れ者、キワモノの感がある。その言動は 奇行も多く、歯にモノ着せぬ言動は反感も買っていたようである。陸軍大学主席卒業では、天皇の前で卒論のレクチャーしなければならない。天皇に失礼があってはならぬと周囲が気を使い彼の成績を次席に下げたそうである。病弱なところがあり終生をとおして何度も入院を繰り返している。陸大卒業後、ドイツに留学、なぜドイツ軍は第一次大戦に負けたのかを徹底的に調べ勉強したと言われる。戦争を「決戦型」と「持久戦型」に分類し、現代の戦争は、総力戦の持久戦型であるとした。いまでこそ当たり前のことだが、この時代 日本人の多くが戦争は、局地で行われる決戦型だと考えているものも多く、日清、日露の戦争も決戦型ではあった。しかし 今後起こるであろう世界最終戦争は、持久戦型だとした。(1940年に世界最終戦を発表している)1931年 関東軍参謀時代、板垣征四郎(東京裁判で死刑)らとともに満洲事変の首謀者となる。満洲事変では、関東軍1万5千の兵力で、25万ともいわれる中国軍を旧満洲から追い出してしまう。そして 旧満州国の建設に乗り出す。彼は、世界最終戦争は、米国と日本・中国・旧満州の間で行われる持久戦だとした。そのため、旧満州をアメリカのような合衆国とし、満州人、漢人、蒙古人、韓国人、日本人を中心とした「五族協和」により、持久戦に耐えうるだけの国力(工業力)を持つべきだとした。そのために、日本人も国籍を捨てて 満洲国人になるべきだと主張している。実際、日本国は、旧満州に対して大きな投資と移民を行っている。1932年には あの「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀を皇帝に迎え旧満洲国を建国する。ドイツ、イタリア、スペイン、タイなど枢軸国側よりの中立国を含め世界の1/3の国が 旧満州国を承認し、米国、フランスは旧満州国との貿易も行っている。しかし 独立国とはいえ、実質は日本の傀儡政権だったようだ。そして、満洲合衆国構想は、現実化されつつあった。経済的には重化学工業を中心に大きな発展をとげていくのである。石原は、この満洲国で、10年 20年と国力増強をはかることが世界最終戦争の持久戦に耐えうる唯一の施策だとした。中国 満州 日本の国防 経済の一体化を目指した東亜連盟を主張した。
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 この旧満洲国を中華民国の領土だとして認めない中華民国は、国際連盟に日本の侵略だとして提訴し、国際連盟は、イギリス人のリットン調査団を旧満洲に派遣する。このくだりは、よく歴史教科書にでてくる。そして、日本は この調査報告を不服として国際連盟を脱退してしまう。1937年には、関東軍は中国との戦争を拡大してしまう。いわゆる日中戦争だが、石原は国防ラインの拡大は時期尚早であり、これに猛反対をしている。関東軍が進める中国侵略に対し不拡大方針を訴求する。時の関東軍現地参謀、武藤章(東京裁判で死刑)に対し、戦線の不拡大を申し入れるが「閣下が満洲でなさったことをまねしただけだ」と突っぱねられる。石原は、東条英機とも中国での戦線の拡大やインドシナへの進行をめぐって意見が対立し、業を煮やした東条が石原を左遷してしまう。この時 石原が主張した絶対国防ラインは、奇しくも米国国務長官ハルのつきつけたあの「ハルノート」の内容と同じ防衛ラインであった。すなわち中国や太平洋地域からの撤兵であり、持久戦に耐えうる最小限の地域を死守すべきと説いている。左遷により1941年日米開戦を目前に予備役に退き、立命館大学の軍事学の講師となる。終戦後、東京裁判においては、東条との不仲が幸いして戦犯には問われなかった。東京裁判酒田の臨時法廷で、東条との関係を問われ「自分には いくばくかの思想がある。東条にはそれが無い。よって比較にならない」と述べている。
 1945年8月9日 日ソ中立条約を破棄し、突如ソ連軍が満洲に攻め込んでくる。ヨーロッパ戦線からシフトした大機械化部隊である。迎え撃つ 関東軍は、南方戦線に主力が取られ弱体化しており、またたく間に、満州全土、アリューシャン列島を朝鮮半島の一部を占領され終戦を迎える。ソ連軍は大量の捕虜をとり、シベリアに抑留してしまう。抑留者は60万とも70万人ともいわれている。うち 一割以上の人間が劣悪な環境で亡くなったとされている。しかし 旧満洲における、工業施設は無傷で残された。中国国内では、終戦とともに 国共合作も終わり 再び蒋介石軍と毛沢東軍の内戦が始まる。そして、素早く旧満洲の工業力に目を付けた共産軍がそれを手に入れる。ソ連も同じ共産主義の毛沢東には旧満洲を返還したようだ。この当時、旧満洲の経済力は、中国全土の90%にも達しておりそれを手に入れたものが中国を納めることになる。1949年中国共産党は、蒋介石国民党軍をやぶり中華人民共和国が成立する。
 冷戦構造が鮮明になっていく中、1950年朝鮮半島では、金日成ひきいる北朝鮮軍が38度線を越えて南に侵攻してくる。金日成の後ろには、中国義勇軍(共産軍)そして ソ連軍の後ろ盾があった。マッカーサーは、当初北朝鮮軍など見くびっていただが、ソウルを占領され、釜山まで進行した北朝鮮軍に対し、あわてて国連軍を組織してこれに当たる。有名な仁川上陸作戦である。マッカーサーは一応の成功をみるも、戦線は一進一退であった。後ろ盾の中国軍の支援が強すぎたのである。マッカーサーはついに米国大統領トルーマンに 中国軍の武器の供給源になっている中国東北部(旧満洲)への原爆攻撃を進言する。トルーマンは、ここで核を使うことはソ連を刺激し、第3次世界大戦の危険があるとして、マッカーサーを解任してしまう。帰国したマッカーサーは国会で、日本軍が成し遂げようとしていたことに一定の理解を示し、東京裁判は間違いであったことを認める発言をする。現実的に、アメリカはこの後朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争と共産軍との戦争を続けることになる。日本に対する、占領政策も朝鮮戦争を境に180度転換し、再軍備を要求するようになる。また 急遽、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は一応独立することになる。同時に日米安保条約が結ばれる。
 ちなみに 1959年には、中国黒竜江省 大慶にて大油田が発見されている。歴史に「もしも」はないとしながらも、「もし日本が1930年当時旧満洲を米国とともに合衆国化していたら」「もし 日本が中国や南方に戦線を拡大しなかったら」「もし旧満洲の石油資源が早期に発見できていれば」石原莞爾の描いたアジア経済ブロック構想は、どうなっていたであろうか。今回の調査で、旧満州国という国は、日本の経済的生命線として建国され、その後順調に経済発展をとげ、中国共産党の手に入り中国を共産化し、朝鮮戦争を引き起こす産業基盤となり、その後も重化学工業を中心に中国経済をけん引していった。戦後の米国の旧満洲経済力調査で調査団が短期間でここまで重化学工業が発達した旧満洲に対し素直に驚いたという。今でこそ 中国の沿岸部の経済が成長し、東北部の経済が老朽化していることが問題視されているが、旧満州という国(土地)がこれほどまでに東アジアの歴史に影響を与えていたことがわかった。そんな中で父の青春や叔父の生命が翻弄されていったのだなと感慨深げになった。

 
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2012年12月19日

アメリカから見た日本C~大東亜会議~

 数十倍の工業力の差に対して負けるとわかっていた戦争に突入していった太平洋戦争。なぜなのかを考える前に、この戦争に対する現代の解釈を整理しておきたい。 
@日本の侵略戦争、民主主義対ファシズムの戦い
東京裁判史観ともよばれ、私が子供の時から、先生や親、マスコミに刷り込まれてきた「日本は 大変な間違いを犯してしまった国。狂信的な悪い国である。」だから ご迷惑をかけた国に対しては謝らなくてはならないし、戦争相手のアメリカの言うことは常に正しく、ゆえに言うことをきかないといけない。日本は、朝鮮半島や台湾を併合し、満州や中国を侵略し、インドシナ、フィリピン、インドネシアに侵攻蹂躙した。また ナチスドイツやファシスト党(イタリア)と軍事同盟を結び、世界の民主主義国家を相手に枢軸国(自分たちだけが中心だとして)の世界征服戦争に乗り出した。非人道的な、南京大虐殺や人体実験を繰り返した731細菌兵器部隊、国際法無視の捕虜虐待や従軍慰安婦問題などいまだに解決していない問題も指摘されている。特に米・英・オランダとの戦争は、真珠湾奇襲攻撃というだまし討ちで始まり、特に米国民の怒りを買う。それまで モンロー主義による中立的立場であったアメリカを連合国側に参戦させ、この世界大戦の行く末を決定させた。日本の戦争指導は政治指導者層により独裁的に行われ、結果、国民を窮地にたたせる。米国による大規模な空襲や原爆投下、ソ連の参戦により、やっとポツダム宣言を受諾して無条件降伏する。戦争指導者たちは、東京裁判で戦争犯罪にとわれ、全員有罪、7人が死刑となる。終戦後、マッカーサー元帥の進駐により「まちがった」日本人は再教育され、憲法9条(戦争放棄)を中心とした平和憲法により平和国家としてよみがえった。

A日本の自存自衛のための戦争
アジア太平洋地域の植民地化を進めてきた欧米にとっての最後ターゲットは日本となった。有色人種で唯一植民地とならず(理由のあるタイを除く)、日露戦争では、強敵ロシアにも勝った日本は、白人にとっては許せない存在だった。満州を傀儡政権とした日本に対して、国際連盟は日本の主張を認めなかった。そこには有色人種に対する偏見が色濃くにじんでいた。日本は、国際連盟を脱退して国際的孤立を強めていく。アメリカ、イギリス、中国、オランダのABCD包囲網による経済封鎖により、資源のない日本はどんどん窮地に追いやられる。頼みの綱のアメリカも最後に石油禁輸に踏み切りる。日本は、日米交渉において、ぎりぎりまで譲歩する。近衛文麿総理は、ルーズベルト大統領に親書を送り、日米首脳会談を申し入れるも無視される。最後には、それまでの日米交渉を全く無視した、 満州・中国(汪兆銘政権)の否認や中国・仏印からの撤兵、三国同盟の白紙撤回を申し付ける米国側ハルノートが実質的な米国側最後通牒(宣戦布告)になり、やむなく自衛戦争に突入する。
初戦時点での講和に失敗し、泥沼化した戦争は、南方諸島での敗退、フィリピン、沖縄戦の敗退、本土の大規模空襲、原爆投下、ソ連参戦など相次ぐ大量虐殺に無条件降伏をやむなく受け入れる。ちなみに 開戦直後から連合国側は、終戦後の日本の処理を巡って会議を重ねている。日本の敗戦後、その支配下にあった国々の多くが共産化し朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争など東西冷戦代理戦争が続く。マッカーサーは、朝鮮戦争において北朝鮮軍(中国軍)と戦い、中国に原爆を投下するようにルーズベルトに進言し更迭される。東西冷戦の激化、朝鮮戦争の勃発により、米国の日本支配目的は180度の転換をみせ、日本の再軍備、日本の不沈空母化を促進し、日本は共産主義の防波堤となるため国力増強、経済成長をなしとげることでその国際的地位を確保できた。米国との同盟関係を結ぶことで見かけ上の独立を保ってはいるが、いまだに米国の核の傘の下、不平等な条約にもあまんじている。

Bアジア植民地の解放のための戦争
「大東亜会議」(昭和18年11月)の理念に代表される、アジア植民地支配400年におよぶ苦渋からの解放、そのための戦争。当初 満州、朝鮮半島に限定されていた共栄圏はその後中国、インドシナ、南方、インドへと拡大してく。当初 石原莞爾らが中心となって作り上げたこの東亜共栄圏思想は、満州で現実化され、太平洋戦争開戦後は、「戦争の大義」ということで重光葵が拡大提唱し東条英機が盛んに宣伝する。「大東亜会議」そのものは、戦後、「日本の傀儡政権による茶番劇」として、一笑に付され、教科書にも載らなかった。近年、日本での国論の右傾化に伴って再度見直しがかかっている。現実的に、大東亜会議への参加各国や東南アジア諸国は、戦後、紆余曲折はあるにせよ宗主国からの独立を果たせている。日本が統治していた朝鮮半島 台湾 満州などには、内地と同じ義務教育がなされ教育が浸透し、欧米がなした「愚民化政策」とは一線を画していることも近年強調されている。また 「アジアが独立できたのは日本のおかげ」と言い切る有名人も内外に居られる。太平洋戦争後のインドネシア独立戦争のように旧日本軍兵士3000名がインドネシア独立軍と伴に、 オランダ軍と戦った事実もある。現実的には、統一した占領政策・アジア開放政策が日本にあったわけではなく、地域ごと国ごとにおいてそのやり方はばらばらだったようだ。ここのくだりは次回より深く掘り下げてみたい。

これら 三つの歴史観は、それぞれそれを裏付ける史実を伴っており、いまだに日本の世論、アジアの世論の中心的議題となることが多い。やはり 過去の歴史を知ることは現在を知ることにつながっている。
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2012年11月18日

アメリカから見た日本B ~チャンドラ・ボーズ~

 シリコンバレーに限ってみれば、インド人は明らかに経済的 成功者である。技術面を中心に米国経済、世界経済の中枢をになっているように思える。この地域の インド人の人口は 20万人以上であり、明らかに富裕層に属している。

今日は、最初から歴史考察に挑戦します。
 まずは 私の政治的な立場を明確にしておく必要があります。私は、左派でも右派でもありません。ましてや中道でもありません。世の中のオピニオンや情報は 自らは中立的な立場だと言いながら、ひどく左右に偏ったものが多いと思います。最近のTV政治バラエティー番組が視聴率向上のためにこれに輪をかけて左右に意見を振ります。最近は、右寄りの意見が多いのではないかと思います。韓国や中国との領土問題などは、人々の心をナショナリズムに向かわせます。私の立場は、「事実を研究する」という姿勢です。これだけ偏った意見が多い中自分の立場を決めるのは無理があります。だから私は右寄りの情報も左寄りの情報も検証します。もっとも最近は 冷戦終結により右寄り左寄りという表現がふさわしくないのかもしれません。また 近年、過去機密とされてきた資料が公開されてきています。この時代の近代史を知ることは、振り返って現代を知る手掛かりになると信じています。
 
 話を戻して チャンドラ・ボーズです。私の会社の隣のディスクには、インド人技術者がいます。かれに「今 チャンドラ・ボーズに興味を持っている」と話したら、延々と彼の人生について語ってくれました。いまでも彼は、ガンジー、ネールと並ぶインド独立の偉人です。人気があります。
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1897年インド ベンガル生まれ。カルカッタ大学卒業後 ケンブリッジ大学に進学。1921年ガンジーとの運命的な出会いで反英非協力運動に参加する。1924年カルカッタ市執行部に選出されるも過激な行動で逮捕・投獄されビルマに島流しにあう。1930年カルカッタ市長に選出されるが、イギリス植民地政府によって罷免される。その後も 即時インド独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍、1937年39年には、インド国民会議派議長を務める。その後 穏健派のガンジーとたもとを分かち国民会議派を除名になる。1941年ひそかにインドを抜け出し、ソ連のスターリンに協力を要請するも断られ その後ドイツに亡命する。ヒットラーやムッソリーニにも協力を要請するが冷遇される。どうも ベンガル人はインド人の中でもアーリア人の血をひいていないらしい。(ヒットラーは アーリア人のみが世界を支配できる優秀な民族だとしていた。インドの独立は150年早いと突っぱねた。)ボーズは、ドイツ ベルリンからインド全土に向けて反英独立のラジオ放送を続ける。このころ 太平洋戦争が勃発して、日本軍がインドシナを占領する。日本軍は、そこで 対英戦のため独立派のインド人部隊を組織していた。(F機関が暗躍した)その最高司令官にボーズを任命するため日本に迎え入れる計画が持ち上がる。、ドイツのUボートでひそかにドイツを脱出してアフリカをまわり 伊号潜水艦に乗り換え東京に向かった。英米軍の支配する海を3か月にわたり航海し日本にたどり着く。日本で、インド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任する。そして 重光葵が画策したあの「大東亜会議」にオブザーバーとして参加する。東条英機は、彼をいたく気に入り 日本はインドの独立を支援することを国会で約束する。


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大東亜会議。向かって右端の背の高い人がボーズである。


 シンガポールで行われたインド国民軍(1万5千人)の閲兵式。このとき ボーズは有名な演説を行う。「すすめ デリーへ!(チェロ デリー)」を合言葉に日本軍とともに進軍を始める。そして インド国民軍は、1944年あの悲惨なインパール作戦に日本軍と行動を共にし、多くの戦死者を出す。その後 ビルマで連合軍と戦う。 ボーズは、日本の敗戦後、ソ連に亡命してインドの独立を果たそうとして、台湾の松山飛行場で事故に会い死亡する。48歳の若い死であった。彼の遺骨は、東京 杉並区の連光寺に祀られている。戦後インドでは、国家反逆罪でこのインド国民軍が英国により裁判にかけられた。そのことを怒った民衆が各地で暴動を起こした。これを抑え込む力はもう英国には残っておらず、インドの独立を認めることとなった。 なんともすさまじい人生である。日本にしてみれば、インドは遠すぎて大東亜共栄圏の外である、ただ イギリス軍と戦ううえでは、インドの存在は大きかったと考えられる。 この時期、東南アジアに植民地を持っていた、イギリス、フランス、オランダは、ヨーロッパ本国では、ナチス軍にメタメタにやられており、とくにフランス、オランダは本国を占領されていた。にもかかわらず、東南アジアの植民地を手放すつもりはなかったようである。このあたり、もう少し研究してみることにしよう。
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