2013年08月16日

終戦記念日に思うこと

 8月15日は 太平洋戦争における日本の終戦記念日だ。正確には、天皇の玉音放送により、日本のポツダム宣言受諾が内外に発せられた日である。また 連合国側への宣言受託の知らせは、8月14日に日本から発信されている。正式な、受諾の調印は9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の甲板で行われている。(VJ-DAY)
 日本の終戦工作は、もっと前から行われており、ポツダム宣言の受諾がもう10日早ければ、広島 長崎への原爆投下は防げていたし、ソ連の参戦それに続くソ連抑留者問題もなかったはずだ。少なくともこのことにより、一般市民をふくむ40万人以上の命が救われているはずと想定できる。そして今日もつづく北方領土問題も違ったものであっただろう。極東におけるソ連の影響力は、現在よりも抑えられ、朝鮮戦争やベトナム戦争さえもどうなっていたかわからない。このように考えると、この終戦記念日とその日までの過程は、その後の世界地図が変わっていたかもしれないということを念頭において考証されなければならない。
 歴史上 公式に日本が敗北を認めるということは、初めてのことである。国家の存亡がかかっている以上、その判断とプロセスは最も大切な日本の歴史であろう。ここで その過程を振り返ってみる。ソ連の参戦を決めたヤルタ会談(ヤルタ密約)、日本の降伏条件を決めたポツダム宣言、この間の日本側の終戦工作を通して終戦までのプロセスを考察してみたい。

ヤルタ会談(Yalta Conference)は、1945年2月4日〜11日に旧ソ連のクリミア半島のヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談。第二次世界大戦が佳境に入る中、ソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった。
ヤルタ密約
主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた 。この協定では、ソ連の強い影響下にあったに、
外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保すること(中国の了解なしに決められている)などを条件に、イツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。
yalta.jpg出典;wikipedia

ポツダム宣言( The Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。文書では原子爆弾には言及していないが、日本が降伏しないならば、「迅速で完全な破壊」に向かうであろう。と警告している。
以下その宣言文である。
(1) われわれ、米合衆国大統領、中華民国主席及び英国本国政府首相は、われわれ数億の民を代表して協議し、この戦争終結の機会を日本に与えるものとすることで意見の一致を見た。
(2) 米国、英帝国及び中国の陸海空軍は、西方から陸軍及び航空編隊による数層倍の増強を受けて巨大となっており、日本に対して最後の一撃を加える体制が整っている。(poised to strike the final blows)
(3) 世界の自由なる人民が立ち上がった力に対するドイツの無益かつ無意味な抵抗の結果は、日本の人民に対しては、極めて明晰な実例として前もって示されている。現在日本に向かって集中しつつある力は、ナチスの抵抗に対して用いられた力、すなわち全ドイツ人民の生活、産業、国土を灰燼に帰せしめるに必要だった力に較べてはかりしれぬほどに大きい。われわれの決意に支えられたわれわれの軍事力を全て用いれば、不可避的かつ完全に日本の軍事力を壊滅させ、そしてそれは不可避的に日本の国土の徹底的な荒廃を招来することになる。
(4) 日本帝国を破滅の淵に引きずりこむ非知性的な計略を持ちかつ身勝手な軍国主義的助言者に支配される状態を続けるか、あるいは日本が道理の道に従って歩むのか、その決断の時はもう来ている。
(5) これより以下はわれわれの条件である。条件からの逸脱はないものする。代替条件はないものする。遅延は一切認めないものとする。
(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。
(7) そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。
(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。
(9) 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。
(10) われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。
(11) 日本はその産業の維持を許されるものとする。そして経済を持続するものとし、もって戦争賠償の取り立てにあつべきものとする。この目的のため、その支配とは区別する原材料の入手はこれを許される。世界貿易取引関係への日本の事実上の参加はこれを許すものとする。
(12) 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。
(13) われわれは日本政府に対し日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求し、かつそのような行動が誠意を持ってなされる適切かつ十二分な保証を提出するように要求する。もししからざれば日本は即座にかつ徹底して撃滅される。

東郷外相は この宣言が、「日本の無条件降伏」ではなく「日本軍隊の無条件降伏」と表現されていることに注目し、「日本は無条件降伏するわけではない」とした。

potsdam.jpg出典;wikipedia

日本の終戦工作
4月7日に成立した鈴木内閣の外務大臣東郷茂徳は、未だに日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦を仲介とした和平交渉を行おうとした。5月の最高戦争指導会議構成員会合(鈴木首相・阿南陸海軍大臣・米内海軍大臣・東郷外相・梅津陸軍参謀総長・及川海軍軍令部総長の6人)では、ソ連の参戦防止・中立確保のための交渉を行う合意を得た。当初はこれに戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸軍大臣が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」として反対したため、前記の2項目のみを目的とすることになった。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した。天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた。東郷は近衛文麿元首相に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった。しかし、すでにソビエト連邦は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。ポツダム会談出席を理由に近衛特使の訪ソを断った。5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官からソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたりしていたが、これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、希望的観測のもとに軽視される結果となった。(この部分は、2012年8月15日放送のNHKスペシャルで初めて明らかになった事実である。もし 日本の指導層がソ連の参戦をこの時点で知っていたら歴史は大きく変わっていただろう。)
 7月のポツダム会談ではソ連は、近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待してポツダム宣言に対し「ノーコメント」とする方針を取った。鈴木首相のコメント「政府は宣言を黙殺」という言葉が、マスコミで独り歩きし、アメリカ側には、「拒否(ignore,reject)」と伝えられた。これらが8月6日、9日の広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦につながった。(この説明は、後述する原爆投下命令日7月25日とポツダム宣言発表日7月26日という矛盾がある)大本営・内閣合同の「戦争最高指導会議」での東郷らの説得工作や、「御前会議」における、2度の昭和天皇の聖断を経て、「国体護持」を条件としたポツダム宣言受諾を決定したが、最前線における日本軍の崩壊や原子爆弾の被害にも関わらず、阿南陸軍大臣ら軍首脳は「自主的な武装解除」・「自主的な戦争犯罪の処罰」・「日本本土への占領を行わない確約」の追加を、最後まで要求した。
終戦の日
ソ連の参戦の報を知り8月9日午前11時。鈴木貫太郎首相は、要人会議(鈴木首相・東郷外相、阿南陸軍大臣、米内海軍大臣、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令総長)を開催し、東郷外相が二つの案を出して採決を迫った。 
@ 皇制の護持だけを要求して、ポツダム宣言を受け入れる。
A天皇制の護持に加えて、国家主権の確保や軍隊の自主的武装解除などを要求した上で、ポツダム宣言を受け入れる。
 鈴木と東郷に続いて、米内海軍大臣も、すかさず@案に賛成した。残りの三人は主戦論だったのだが、会議のテンポに付いていけず、なんとかA案を支持するのが精一杯だった。午後10時半になっても、議論に決着が付かなかった。この会議中に、長崎に原爆が投下された知らせが届く。
 休憩時間に、鈴木は東郷とともに皇居に行って、天皇に直接、御前会議の開催を申し入れた。午後11時50分、御前会議が開催された。

0b96d218.jpg
出典;wikipedia

東郷が提示した@案とA案を巡って、激しい議論の応酬が戦わた。@案支持は、鈴木、東郷、米内、平沼で、A案支持は、阿南、梅津、豊田だった。両者は真っ向からぶつかり一歩も退かず、ついに時刻は、8月10日午前2時。鈴木は、天皇に発言を求めた。
そして、昭和天皇は、こうこたえられた。
「それならば、私が意見を言おう。さきほどから外務大臣の申しているところ(@案)に同意である。念のために理由を申しておく。戦争が始まって以来、陸海軍のしてきた事は、どうも予定と結果が違う場合が多い。いま陸海軍は本土決戦の準備をしていて、その勝算もあるように申しているが、その点についても心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防衛について話を聞いたが、侍従武官が現地を見てきての報告では、総長の話とは違っていて、防御対策はほとんどできていないようである。また、新編成の師団について、総長は装備完了といっていたが、実際には、兵士に銃剣さえも支給されていない有様であることも分かった。こういうことで本土決戦に突入したら、どうなるか。私は、非常に心配である。あるいは、日本民族はみんな死んでしまわなければならないことになるのではないか。そうなったら、先祖から受け継いできたこの日本という国を、子孫に伝えることができなくなる。日本を子孫に伝えるためには、一人でも多くの国民に生き残ってもらい、その人たちに再び立ち上がってもらうほかに道はない。また、これ以上、戦争を続ければ、日本国民だけでなく、外国の人々も多くの損害を受けることになる。私としては、忠勇なる軍隊の降伏や武装解除は忍び難いことであり、戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽くした人であることを思うと、堪え難いことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍び難いことも忍ばねばならないと思う。私はいま、日清戦争のあとの三国干渉のときの明治天皇のお心持ち(臥薪嘗胆)を考えている。皆のものは、私のことを心配しているようだが、私はどうなっても構わない。私は、こういう風に考えて、戦争を速やかに終結する決心をしたのだ。兵士や国民は良く戦った。多くの人が戦死し、傷つき、空襲で死傷し、財産を失った。その人たちや遺族の事を考えると、まことに胸がかきむしられるようだ。また、外地にいる人たちのことも心配でたまらない」
 天皇の話は30分以上も続き、会議室は要人たちの嗚咽で埋め尽くされた。この言葉が結論となり、同日、スイス、スウェーデンにポツダム宣言を「天皇の大権が変更されない」ことが含まれるとして受諾する旨発信された。これに対し、米国バーンズ国務長官から「天皇および日本政府の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる(subject to)」と返答がありまたも会議は紛糾した。8月14日 第2回目の聖断が下り、この条件含み日本側が宣言受諾することを同日、連合国側に伝えた。

考察
 戦争に負けるということは、国土は他国に占領され、天皇や戦犯は処刑、政府も軍隊も解体、男は奴隷か処刑、女は奴隷(性奴隷)と日本人は教え込まれれていた。この考えは、戦後の米国統治を知ってしまった現在からみると歪んでいるように見えるが、当時の帝国主義国家が被植民地民族になしてきた歴史を考えると、あながち間違ってはいないと思う。だから 竹やりで本土決戦だという考えも無茶ではあるが。とにかく 日本の国家がなくなるという事態に対して、世界がどのようなプロセスで「終戦」にたどり着いたのかを知ることは戦後に生きる日本人として最大の歴史と捉えてこれを考察していくべきであると考える。
 ヤルタ密約では、それ以前から既に始っていた東西冷戦の駆け引きが顕在化していくことに注目したい。米国の兵隊がこれ以上消耗するのを恐れたルーズベルトは、スターリンへ日本への参戦を促す。日露戦争で奪われた領土を奪い返し、極東に進出したいソ連にとってこれは「渡りに船」だっただろう。この密約、当の中国の了解が取れていない中での約束である。戦後、冷戦が激化する中でアイゼンハワー大統領は、この密約は、ルーズベルトとスターリンの個人的な話だとして、米国の国家的関与を否定している。しかし、きっちり正確に ドイツ降伏の3ヶ月後にソ連は満州になだれ込んできた。日ソ中立条約は、実質的に破られた。ソ連側の宣戦布告では、「日本政府が7月26日の米英中による3国宣言(ポツダム宣言)を拒否したことで、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われた。」とされた。そして、日本の8月15日のポツダム宣言受諾後も軍を進め、目的の領土の実効支配がすむまで、武装解除命令下の日本軍に対し軍事的な侵略をつづけ、9月2日の宣言調印後までこれを続けた。(一部 占守島の戦いなど 日本軍が優勢に戦った事例もある)米国などの講義により戦闘は、国後 択捉を占拠して9月5日に終わった。このソ連を通して、天皇制維持と米英との和平工作を考えていた日本側の国際情勢の分析能力の低さはあきれるばかりである。ここでも、ソ連参戦の情報を陸海軍はすでに入手しながら、それを活かすことができなかった。日本国家の存亡という事態においても、彼らは自分の組織の利害を優先させたのである。この指向は先の福島原発事故や官僚主義、企業の不祥事など現在の日本においても散見される。
 ポツダム宣言は、7月26日に、通告され、それを日本は拒否(黙殺)したとして8月6日、9日に原爆攻撃をうけ、同じく9日にソ連は参戦をしている。この悪夢のような2週間を振り返ってみる。トルーマンは、ロスアラモスでの原爆実験成功の知らせを聞いた後、7月25日ポツダムから日本への原爆攻撃を指示している。これは、ポツダム宣言の発表前である。すでに日本の外務省の暗号を傍受解読しており、日本がポツダム宣言を無条件で受け入れるつもりはないことを知っていたのだ。軍事的には、日本の敗戦はすでに明らかであり、原爆を投下する軍事的意味がないのにもかかわらずである。原爆開発の科学者たちをはじめアイゼンハワーなど側近の反対を押し切っての原爆投下判断であった。また、あの最高司令官のマッカーサーでさえ原爆投下判断は知らされていない。トルーマンは、多額の税金をつぎ込み開発した原爆の威力を世界に知らしめ、ソ連に参戦されるまえに原爆を投下して、日本を米国の支配下に置きたかったと考えられる。(一部には 黄色人種に対する人種偏見があったのではという意見もある。原爆投下は人体実験だったという意見もある。)ソ連は、上述の領土支配欲にかられ参戦を開始する。日本は、何としても「天皇制の維持」だけは勝ち取りたいと無条件降伏に難色を示す。米ソ東西冷戦のしのぎあいの中で日本は翻弄され、それでも体制維持に固執するという構図である。やはり、ポツダム宣言受諾には、天皇の立憲君主制を超えた超法規的発言が必要だったのだろうか。とにかく ここで戦争を終らせなければ、日本の分割統治を主張していたソ連と米国とのあいだで、「5年早い朝鮮戦争」が日本の国土で行われていた可能性さえあるのではと考えてしまうのはゆきすぎだろうか。日本のポツダム宣言受諾がもう10日早かったら、原爆投下もソ連の参戦も無かった・・・という書き出しで始まったこの文章ではあるが、ここまで書いて、「いやそうとばかりも言えないなあ」と感慨深げになってしまった。
 戦争の歴史を振り返るたびに思うことは、「正義のための戦い」などは最初からなく、「勝ったものが正義を語る」だけだ。「歴史は勝者により書かれる」の言葉通り、この後、東京裁判が勝者の一方的な論理で行われ、戦犯の処刑が行われる。そして今日も続く戦後の歴史教育はこの東京裁判史観に基づいて行われている。近年の韓国、中国、歴史認識問題やロシアを含む、領土問題もこの歴史認識の違いが原因している。そういう意味では、終戦の日とそれにつづくプロセスの歴史認識は、未来にも影響のある重要な今日的課題である。終戦までのプロセスにはまだおおくの謎が眠っていそうだ。
 


posted by Kogame3 at 04:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史認識
この記事へのコメント
”終戦記念日に思う”熟読しました。これから日本を背負ってくれる若人が真剣に終戦を思い語る勇気に力づよく受け止めました。72歳の私に稀薄になっていた終戦歴史感がよみがえってきました。歴史認識の原点は自分を抑えてどれだけ相手の気持ちに近づけるかにかかっていると思います。リタイヤーしてから世界数十ケ国の観光旅行をして共通して感じてきたことは世の知識人が我欲を達成するために創造が現実に文明・文化を発展させてきました、この世界歴史遺産には絶句してしまいます。その延長線に世界の先進国は植民地化を図り拡大してきました。
我が島国日本は藩戦国時代、元禄時代、富国強兵侵略戦争、戦後敗戦復興経済至上主義、我欲を超え世界一の国家の共通の夢があったからこそ経済大国になり世界の注目を集めるようになりました。更には積極的世界平和と称して九条憲法論が国民的話題として取り上げられるようになり健全な社会に育ったとは大変喜ばしいことです。
世界自由経済も発展途上においてはバランスを成してきましたがコンピュター社会が投資ファンドを加速し金融経済を歪曲化し始めていますビット金融誕生も見逃せない課題です。
現代は多様化に相応できずこ小粒になっていますが”あきらめないでやり遂げる”アスリート精神が新しい世界、新しい秩序を生んでくれると信じています。以上私のつぶやきです、お許しを。




















































































Posted by 吉田 護 at 2015年01月03日 19:07
コメントありがとうございます。私は戦後13年が経って生まれました。でも子供のころから自分たちの親の世代が文字通り命をかけて戦争をしたことが不思議でなりませんでした。特に 自らの命を国にささげた特攻隊の話は理解不能状態でした。想像するだけで身の毛がよだつ思いでした。少し大きくなると、図書館で、日本軍の中国大陸での殺戮やナチスの残虐性を本で知りこの不思議感は最高潮に達しました。そして、この時代の世界と現在自分が住んでいる現代とは全く違う価値観で支配されているんだと自分に言い聞かせこの不思議を自己の中で封印してきました。
ところが時がたち 米国生活をつづけているとこの不思議さがまたぞろ僕の思考を支配してしまいました。封印していた過去の不思議が米国ではリアルな記憶として街中に現存するのです。アメリカ人は当時の戦争の延長線上に生きているのです。ワシントンの市街を歩くと町中戦争のメモリアルばかりです。太平洋戦争、対独戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、、、。すべてが、輝かしい自由と民主主義のための戦いであり、それに勝利し続けてきたアメリカ、勧善懲悪思考のオンパレードでした。西海岸でも同じでした。過去を封印して生き続けてきた日本人と過去を美化し続けるアメリカ人。そんな環境の中で私は少年のころ封印していた不思議の壺のふたを開けてしまいました。
世の中が右傾化していると言われる日本において、戦後の行きすぎた自虐史観が修正されるのは結構なことだと思っています。しかし、先の選挙でも顕在化した投票率の低さ、ポピュリズムに翻弄され、醒めてしまっている若者たち。そこに、マスメディアが偏向した右傾化情報を一方的に流すことに違和感も感じています。自ら情報を集め、本物に触れ、自分の頭で考え答を出す人間を増やさなければならないと感じています。
人類は、死の恐怖を回避するために、不安という思考をはぐくみ、情報を集め、知能を発達させてきました。その不安が宗教と科学を生み発展させてきたのだと思います。人類を発展させてきた不安が今は、人類を滅ぼそうとしています。私は、不安をコントロールすることこそ人類の本当の知恵であり、愛であると思っています。
若輩者のたわごとにお付き合いいただき恐縮です。これからもご意見よろしくお願いします。
Posted by kogame3 at 2015年01月04日 00:51
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