2012年11月18日

アメリカの旅~秋のYosemite〜

 同じ場所に、何度も行ってしまう。それだけの魅力があるのだろう。Yosemiteの谷は4度目の訪問である。ここは、どこか気品が感じられ心が休まる場所である。また 四季により 同じ場所でも全く印象が異なるのもおもしろい。「あなたが今見ている景色は、もう二度と見るころはないでしょう」ってな看板があった。

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Yosemite公園のゲート。秋の気配がする。

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秋のトンネルビューは、落ち着きがある。

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こちらは 雪のトンネルビュー。とにかく寒い。気温は、氷点下を差している。冬季はこの先のグレーシャーポイントまでは通行止めでいけない。

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夕日に映えるエルキャピタンの絶壁。

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これは 珍しいい、ライトアップされたようなエルキャピタン。

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夕方になると谷底にはもやがかかり幻想的な雰囲気をかもしだす。

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このUFOみたいな奇岩はいつみても面白い。

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この日は ミラーレイクトレイルを4時間あまり歩いた。ハーフムーンドームのふもとを回るコースだが、その景色は飽きることがない。

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11月の初旬だが うっすらと雪化粧のYosemiteであった。Yosemiteの雪ってラッキーだねって言われた。
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アメリカから見た日本B ~チャンドラ・ボーズ~

 シリコンバレーに限ってみれば、インド人は明らかに経済的 成功者である。技術面を中心に米国経済、世界経済の中枢をになっているように思える。この地域の インド人の人口は 20万人以上であり、明らかに富裕層に属している。

今日は、最初から歴史考察に挑戦します。
 まずは 私の政治的な立場を明確にしておく必要があります。私は、左派でも右派でもありません。ましてや中道でもありません。世の中のオピニオンや情報は 自らは中立的な立場だと言いながら、ひどく左右に偏ったものが多いと思います。最近のTV政治バラエティー番組が視聴率向上のためにこれに輪をかけて左右に意見を振ります。最近は、右寄りの意見が多いのではないかと思います。韓国や中国との領土問題などは、人々の心をナショナリズムに向かわせます。私の立場は、「事実を研究する」という姿勢です。これだけ偏った意見が多い中自分の立場を決めるのは無理があります。だから私は右寄りの情報も左寄りの情報も検証します。もっとも最近は 冷戦終結により右寄り左寄りという表現がふさわしくないのかもしれません。また 近年、過去機密とされてきた資料が公開されてきています。この時代の近代史を知ることは、振り返って現代を知る手掛かりになると信じています。
 
 話を戻して チャンドラ・ボーズです。私の会社の隣のディスクには、インド人技術者がいます。かれに「今 チャンドラ・ボーズに興味を持っている」と話したら、延々と彼の人生について語ってくれました。いまでも彼は、ガンジー、ネールと並ぶインド独立の偉人です。人気があります。
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1897年インド ベンガル生まれ。カルカッタ大学卒業後 ケンブリッジ大学に進学。1921年ガンジーとの運命的な出会いで反英非協力運動に参加する。1924年カルカッタ市執行部に選出されるも過激な行動で逮捕・投獄されビルマに島流しにあう。1930年カルカッタ市長に選出されるが、イギリス植民地政府によって罷免される。その後も 即時インド独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍、1937年39年には、インド国民会議派議長を務める。その後 穏健派のガンジーとたもとを分かち国民会議派を除名になる。1941年ひそかにインドを抜け出し、ソ連のスターリンに協力を要請するも断られ その後ドイツに亡命する。ヒットラーやムッソリーニにも協力を要請するが冷遇される。どうも ベンガル人はインド人の中でもアーリア人の血をひいていないらしい。(ヒットラーは アーリア人のみが世界を支配できる優秀な民族だとしていた。インドの独立は150年早いと突っぱねた。)ボーズは、ドイツ ベルリンからインド全土に向けて反英独立のラジオ放送を続ける。このころ 太平洋戦争が勃発して、日本軍がインドシナを占領する。日本軍は、そこで 対英戦のため独立派のインド人部隊を組織していた。(F機関が暗躍した)その最高司令官にボーズを任命するため日本に迎え入れる計画が持ち上がる。、ドイツのUボートでひそかにドイツを脱出してアフリカをまわり 伊号潜水艦に乗り換え東京に向かった。英米軍の支配する海を3か月にわたり航海し日本にたどり着く。日本で、インド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任する。そして 重光葵が画策したあの「大東亜会議」にオブザーバーとして参加する。東条英機は、彼をいたく気に入り 日本はインドの独立を支援することを国会で約束する。


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大東亜会議。向かって右端の背の高い人がボーズである。


 シンガポールで行われたインド国民軍(1万5千人)の閲兵式。このとき ボーズは有名な演説を行う。「すすめ デリーへ!(チェロ デリー)」を合言葉に日本軍とともに進軍を始める。そして インド国民軍は、1944年あの悲惨なインパール作戦に日本軍と行動を共にし、多くの戦死者を出す。その後 ビルマで連合軍と戦う。 ボーズは、日本の敗戦後、ソ連に亡命してインドの独立を果たそうとして、台湾の松山飛行場で事故に会い死亡する。48歳の若い死であった。彼の遺骨は、東京 杉並区の連光寺に祀られている。戦後インドでは、国家反逆罪でこのインド国民軍が英国により裁判にかけられた。そのことを怒った民衆が各地で暴動を起こした。これを抑え込む力はもう英国には残っておらず、インドの独立を認めることとなった。 なんともすさまじい人生である。日本にしてみれば、インドは遠すぎて大東亜共栄圏の外である、ただ イギリス軍と戦ううえでは、インドの存在は大きかったと考えられる。 この時期、東南アジアに植民地を持っていた、イギリス、フランス、オランダは、ヨーロッパ本国では、ナチス軍にメタメタにやられており、とくにフランス、オランダは本国を占領されていた。にもかかわらず、東南アジアの植民地を手放すつもりはなかったようである。このあたり、もう少し研究してみることにしよう。
posted by Kogame3 at 05:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史認識

2012年11月04日

ハローウィン

最近は 日本でもハローウィンを祝うそうな。10月も後半になると街中にかぼちゃがあふれる。年末にかけアメリカ人の盛り上がりが徐々にスタートするようだ。

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そしていよいよ 10月31日にクライマックスを迎える。この日 近所のLOS GATOSの街にライトアップされた夜景を見に行く。

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どこの家もLEDで飾り付けられている。ちょっとイメージが違ったのはどこのお屋敷もお化け屋敷に仮装していることだ。

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こちらは 「オズの魔法使い」。屋根には ブリキ男とかかし男がいる。

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こちらは 家に前で「スリラー」を踊る人たち。町内会で練習したのだろうか。結構上手。

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こちらは英国王室のパロディだろうか。エリザベス女王やウィリアム王子までいる。

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街は歩行者天国なり、若者であふれていた。やはりアメリカは活気がある。

アメリカから見た日本A
ここからは、歴史のお勉強のコーナーである。
まず私には以前から気になっている2人の人物がいる。「重光葵」と「チャンドラ・ボーズ」である。
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sigemitu (7).jpg 重光葵は、1945年9月2日、日本降伏文書にマッカーサー達の前でサインさせられた当時の日本の外務大臣である。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの甲板で、山高帽をかぶった足の不自由な人が調印に臨んでいるのを教科書の写真で見た方も多いだろう。彼の人生を調べてみるとこんなにすごい人が日本にもいたのかとびっくりする。戦前の彼は 優秀な外交官としてヨーロッパや中国の大使を努める。特に、1932年上海事では変当時軍部の独走に反対し中国と上海停戦協定を結ぶことに奔走する。その過程で 爆弾テロにやられ右足切断の重傷を負う。手術の直前激痛のなか、何としても停戦だけはとの思いで必死で停戦協定に調印する。なんともすさまじい。国際連盟では、欧米の差別的民主主義に反対し憤慨する手記を残している。松岡洋介らが進めた 日独伊三国軍事同盟は、「欧州の戦争に巻き込まれることになる」として外務省に対して大反対をしている。太平洋戦争が始まるとアジアの権利を侵害してはならないと軍部に憤慨している。戦中は東条内閣の外務大臣を務め、戦時中の1943年には「大東亜会議」を東京で開催している。この会議ではアジアの自主独立を宣言し、この戦争が侵略戦争ではなくアジアの解放のための戦争であることを世界に発信している。この折 自由インド代表のチャンドラボーズと対面している。終戦後は、先に述べた降伏文書調印式に日本全権として臨む。その時 マッカーサーから日本を軍政下に置くことを通告されるが「日本には政府が存在する」とそれをはねのけている。(一部の書籍によると この時 マッカーサーは 国語を英語に、貨幣を米国軍票に そして裁判権を米軍に帰属させる旨の通達があった。これが事実なら日本の恐ろしい危機を彼は救ったことになる。)その後 東京裁判ではA級戦犯として訴追をうける。当初戦犯リストには彼の名前がなかったのだが、ソビエトの強硬姿勢で禁固7年の実刑判決までくらうことになる。1950年に巣鴨プリズンから釈放され、1952年には吉田茂と総理大臣の椅子を争う。その後 鳩山一郎と日本民主党を立ち上げ1955年には保守合同、自由民主党となる。1954年以降鳩山内閣では 3期連続して外務大臣を務める。この間、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)で日本の国連復帰支持を得るもまたしてもソビエトの反対で流れる。

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重光は日ソ交渉において北方領土2島の返還を勝ち取るが鳩山首相は、領土問題を棚上げして「日ソ共同宣言」を優先し日本の国連参加をはかる。1956年国連総会で日本の国連加盟が全会一致で承認され、重光は加盟受託演説を国連総会で行う。有名な「日本は 東西の架け橋になりうる」という名句を残す。このあと自ら日章旗を国連本部ビル前に掲揚する。米国追従路線の吉田茂とは一線を画した筋金入りの政治家である。また、侵略戦争には断固反対して、太平洋戦争の大義をアジアの解放に方向づけするよう努力している。こんなすごい政治家が日本にもいたのである。感動的であるとともにこの時代に世界の趨勢を読めた数少ない政治家であった。 
(大変長文になってしまったのでチャンドラボーズは次回に回します。)


posted by Kogame3 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史認識